■文章を書く「動機」に、
 書き手の根底にあるものが表れる



文章を書く上で大切になるのは「動機」です。
どのような動機に突き動かされて筆を走らせているのかで、文章の趣は大きく変わります。

私が文章を書く主な動機は、「人とは違った角度から、役立つコンテンツを書きたい」です。既出している理論やノウハウは、正直書きたくありません。もし、他の人が述べている理論を私が語るとしても、人とは違った見方や解釈を添えて伝えるようにしています。そうでなければ、読者の役には立たないでしょうし、何より、書いている私が面白くありません。

「役立つコンテンツ」にこだわるのは、効果・効率を好む性格から来ているのでしょう。私が読むブログや書籍は実用書ばかりです。小説やエッセイは10冊も読んだことがありません。そんな性格のためか、エッセイや日常の出来事を書いていても、ちっとも愉しくないのです。「一般ピープルである私の日常話なんか、誰が読むんだ。読んで愉しいのか?」という思いが拭えないからです。たまには書きます。ただし、珍しい経験やオチがあったりする話だけです。そうでなければ、読者は愉しくないでしょうし、何より、書いている私が愉しくありません。

もちろん、日常の話やエッセイ、小説を書く人がいても良いです。愉しく読む人もいることでしょう。それは自由です。非難するつもりはありません。

何が「動機」となり、筆を走らせるのか。それには、筆者の性格や価値観が大きく影響しているのでしょう。どんな動機にしろ、読者にとって有益か娯楽になるものがいいですよね。


反対に、避けたい動機もあります。それは、負の動機です。
たとえば、「人を非難したい」「嫌いない人を貶めたい」「相手の評価を下げたい」など、こういった動機で書く文章は読んでいる人にまで負の感情を植え付けます。

言論をするのは構いません。相手の論理に反論や異論を唱えるのは、誹謗中傷とは違います。ただし、言論も気をつけなければ、議論がヒートアップして行くうちに、いつの間にか人格攻撃していることもままあるのです。論理がその人の性格や価値観に根ざしている部分もあるため、切り分けるのが難しいところもありますが、注意したい点です。


この話にちなんで、「言論」でよく用いられる「論破」についてお話しします。
10年ほど前の私は、議論や口論した際、相手がぐうの音も出ない詰将棋をするのが好きでした。ある日父から、「詰むな。相手が逃げられるようにしろ」と注意されました。確かに、相手を負かして優越感に浸るのは小物のすることだという考えに至りました。あえて勝たないのも「強さ」なのだと知ったのです。
それからは、特別なことがない限り、極力、詰将棋はしなくなりました。誰かの何かを批判する際も、できれば愉しく、役立つような形で批判できればな、と考えるようになったのです。


なぜ、自分は書くのか。
その「動機」を内観することは、自身の人間性を探る一つのヒントになります。私は、書く動機を探ることで、自分は小さいころから「人と違う事をしたい」と無意識に思っていたことを想起しました。今もやっぱり、それをしているのです。




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